シュルレアリスム実践メモ

学問としてシュルレアリスムを学ぶ管理人が(体を張って)シュルレアリスト・アート、ゲームを実行するブログです。シュルレアリスム初心者から専門的に学ぶ人まで楽しめるようにしたいとおもいます。

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Week11 シュルレアリスムの幕開け

Week 11 シュルレアリスムの幕開け


その1 ダダからシュルレアリスムへ



楽しい冬休みも終わってしまいましたね。


私Lushyは何とN.Y.に行っていました。


ええ、ビッグアッポーです。アメリカ美術のクラスの一環で大学の学部が主催する旅行です。もちろん美術館めぐりの旅だったんですが、まぁ生徒にとってはタダでアメリカに行ける事のほうが大事なんですよ(ごめん教授陣)。


ショッピングしたり、食べ歩きしたり、ジャズバーにいったり。(一般生徒)


落書きだらけの廃墟を見たり、美術館で彫刻にガンつけられたり。(自分)


落書き廃墟       evil kid in met


まぁ楽しみ方はひとそれぞれですね。


 


さてすっかり休みボケしてましたが 2学期はじめての授業です。


つまりシュルレアリスムの授業第一回目


前期では(ドーンのメキシコ出張により;)すっ飛ばされてしまったパリ・ダダから始めましょう。


 


シュルレアリスムはダダの灰の中から生まれた」と言われていますが、2つの性質は似て非なるもの。


否定的態度の反芸術から無意識・夢を中心とした芸術(もしくは哲学)にどう昇華していったのか?



まずはツァラのダダ宣言が出た年「1918」。


この年はアポリネールが死んだ年でもあり、またチューリッヒとニューヨークで別々に活動していたツァラピカビアがコンタクトを取り始めた年でもあります。また、ダダがパリにも飛び火し、宣言を読んで感銘を受けたアンドレ・ブルトン(当時22歳)がツァラに熱烈ラブコールを送ります。


歴史的には第一次世界大戦が終わった年でもあり、チューリッヒの亡命者は今や自由に動けるようになりました。(皮肉にもそれでチューリッヒ・ダダは弱体化してしまいます)


ピカビアのすすめもあり、ツァラは1920年にパリに移り、雑誌文学Litteraturaの編集をしていたブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーに出迎えられます。



文学」…反芸術・アナーキズムを追求するダダの中にあって何ともそぐわないタイトルです。


既成文学に対する皮肉の意味もあったかも知れませんが、ロートレアモン、アポリネールなどに敬意を表していたことは事実で少なくともピカビアの「391」やツァラの「DADA」よりは、文芸的であったことは否定できません。)


そんなこんなでツァラ&「文学」グループはパリ・ダダとして活動を開始しますが、翌年の「モーリス・バレス裁判」事件で決裂してしまいます。


 


Andre Breton/Paul Eluard/Tristan Tzara/Benjamin Peret


↓続く



モーリス・バレス裁判とは?


ダダイストが尊敬していた作家モーリス・バレスを国粋主義に寝返った罪で糾弾するMock Trial (偽裁判)です。ブルトンを裁判官にしたこの裁判、結構シリアスな感じで行われたのですが、全然乗り気じゃないツァラは歌を歌ったり茶化すようなことばかり。



ツァラ:


モーリス・バレスは私が文学的経験の中で出会った、一番感じの       悪い男です(中略)バレス氏は、その人生の擁護しうる行為にもかかわらず、今世紀最大の豚野郎です。


ブルトン:


モーリス・バレスのほかに、大豚野郎の名をあげることができますか。


ツァラ:


はい。アンドレ・ブルトンです・


ブルトン


証人はまったくの白痴とみなされたいのか、それとも精神病院にいれられたいのか。


ツァラ:はい。私は全くの白痴とみなされたいと思います。


参考 http://home.t01.itscom.net/tzy/tristantzara.htm





いくらなんでも豚野郎呼ばわりされて気持ちいいはずもなく。


(いや気持ちよかったらそれはそれで面白いケド)


結局 ツァラとは向かう方向が違っていた事もあり、


ブルトンsはダダの否定的態度に見切りをつけます。


1922~1924年まではダダともシュルレアリスムともつかない時代。


ダダに対するリアクションと考えるとPost-Dada と言うよりは Pre-surrealismでしょうか。


ブルトンsは主に記事や論文を雑誌に投稿して活動していました。


ブルトンは「文学」にのせたエッセイの中でダダについてこう書いています。



“Dada was never by us as anything more than the vulgar image of a state of mind that it in no way helped to create”(After Dada、1922)


ダダは精神状態の卑しいイメージでしかなく、創作に役立つことはない


”Dadaism…was for certain people no more than a means of sitting down”(Leave everything, 1922)


ダダイズムはある者にとっては、腰掛でしかなかったのだ


 


この頃書いたエッセイは後に有名な「失われた足跡」として出版されるのですが、その中のひとつ「The mediums enter」こそ、直接シュルレアリスムにつながっていく大事な文章です。


次回 オートマティズムと夢のイメージへ続きます。







全員がブルトン顔に加工された写真発見


きもちわる!


Vorlage: Gruppe Littérature, A. Breton, P. Eluard, B. Peret & T. Tzara


http://forum.psrabel.com/beitraege/psrabel/surrage/surrage02.html

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